第25話  鳥 刺 し               平成25年09月30日  

 映画「必死剣 鳥刺し」は藤沢周平の短編時代小説シリーズ『隠し剣狐影抄』に収録された一編である。だが、これは藤沢周平が、本の上で創造した「秘剣鳥刺し」であって昔から鶴岡に伝わる鳥刺しとは異なる。
鶴岡の武士階級の間で遠足と称し体力の増強の名の元に釣りと共に遠足と称されて流行した「鳥刺しとは、果たしてどんなものであったのだろうか?」と云う疑問が何時も心の片隅に庄内藩の江戸時代の釣りを調べる度にその鳥刺しと云う言葉が、何時もわだかまりのように残っていた。
 致道博物館に鳥刺しに興ずる武士の絵を見た事がある。それがそれまでの知識と云うか、知っている事の全てである。武士たちが野山を闊歩し小鳥を捕まえる事イコール体力の増強と云う事である。但し、長い竹槍の様な物を使って小鳥を刺し殺すのか、槍先に鳥モチ(鳥黐)を付けて捕えるのかは、恥ずかしながらつい最近まで全く分からなかった。
 鳥刺しの竿は、長さ三間(5m40cm)である。竿尻に真鍮製の輪をはめてその下に朴(ホオ)の木で竿尻を付ける。これは竿尻を何度も地面につけると竹が割れてしまうからだと云う。竿先にも真鍮の輪を付けて、その先に篠竹で三尺(90cm)ほど目つぶしと呼ばれるものを付ける。この目つぶし部分に鳥黐(とりもち)を塗り小鳥を捕える。又手元から一間(1.8m)の場所に竹を逆付にする。継ぎ目に漆を何度も塗って手で触っても全く抵抗のない物にする。この作業によって鳥刺し竿は根元から穂先まで真直ぐになり、立派な鳥刺し竿となる。目つぶし部分の篠竹は、消耗品で城下近くの道端にも幾らでも生えていたから幾らでも簡単に補充が出来た。又、その篠竹は昭和の中頃まで荒物屋でも売られていた。
 は@青黐、A赤黐、B白黐の三種ある。@は精製度の低い物で主にハエ取りに使われる。@ABの順に精製度が上がり、ブリキ缶に使い古しの菜種油と黐を入れて堅い物と柔らかい物の二種類作り黐笥(もちげ)に入れて持ち歩く。名人は二種類の黐を持ち歩き天候を読んで使い分けると云う。使う時は穂先の目つぶしを黐笥に差し込み黐を塗り込む。
 幕末の頃最も望ましい趣味として鳥刺しと釣りを遠足と称し藩を上げて奨励している。遠出をして野山を闊歩すると云う体力増強策は、ゲリラ戦を得意とし戊辰戦争に大いに役立っている。奥羽越列藩同盟の他藩が脱落し、孤立無援となった為に結果的に降伏したものの、戦はすべて領外で行われた。その結果徹底抗戦を避け、その間西郷隆盛に接触し和平の道を模索した結果、会津藩の二の舞にならず済んだ。

 又、一日に百羽獲る人を百刺しと云い、それがそのまま名人の称号となった。偶々百羽とっても一羽鳥のスズメが入っているとランクが下がると云い認められない事もある。又鳥にはランクがあり、四半羽鳥、半羽鳥、一羽鳥、二羽鳥、三羽鳥、四羽鳥がある。一羽鳥はスズメ、カワラヒワ、アオジ、ホジロなどで半羽鳥はそれより小ぶりなウグイス、キビタキ、シジュウカラ等、四半羽鳥は更に小さいミソサザイ、ゴジュウカラが該当する。又逆に二羽鳥、三羽鳥、四羽鳥は大きくなっていく。それ以上は竿が折れてしまうので銃で撃つようになる。

参考著書:『鳥刺しの話語り遺したい郷土の歴史』 山崎誠助(著) 犬塚(聞き手) 鶴岡市教育委員会(出版)